OTAKU meets IDOL

from 早稲田大学アイドルと言葉で遊ぼうの会

欅坂 46 によるアイドル・スペクタクルの統⼀ 〜保守としての欅坂 46〜

この前書きの下にある⽂章のようなものは、私こと執筆者(5 年⽣)(新⼊会員)が 4 年⽣だった頃に書いたゼミ論⽂から⼀部を抽出し、コンパクトに改稿したものです。

欅坂 46 の歪んだオタクである私は、このグループをどうにかして、保守的な現象として語ることはできないだろうかと常⽇頃頭を悩ませていました。そんな折にたまたま出会ったのが、本⽂中にも登場するギイ・ドゥボールという⼈とその本だったのです。

この⼈の⾔ってることを借⽤すれば、それっぽい⽂章が書けるんじゃないのか。

そんな衝動が抑えきれず、出しさえすれば確実に単位が来るゼミ論⽂を利⽤したというわけです。教授の講評は聞いていませんが、学術論⽂としてはギリ不成⽴といったところの出来であると思われ、⽣意気にも「だ・である調」で揃えてあることをまず、読んでくださっているあなたにお詫びさせていただきます。

何が⾔いたいかというと、そんな⽂章の⼀部を、このような形で供養させてくれる懐を持った媒体は、早稲⽥広しといえど当サークルを置いて他にないということです。とにかくイカ臭くてわかりづらい⽂章ですが、当サークルに⼊れば、こんな産廃でも多少は⽇の⽬を⾒させてくれるよ、という参考としてお読みいただければ幸いです。

 


(以下本⽂)

欅坂 46 によるアイドル・スペクタクルの統⼀
〜保守としての欅坂 46〜

 

⓵欅坂 46 は⾰命なのか

 欅坂 46 のオリジナリティに関してはいろいろな⾔われ⽅がされるが、結局のところ『サイレントマジョリティー』がすべてであると⾔える。まず、アイドルの表現の主題に、社会への反⾻精神という新しいフレーバーを増やしたことが画期的である。そういう反抗的な曲は過去にも多くあっただろうが、モー娘。、AKB 以降のグループアイドル像に⼀⽯を投じた点で、その登場は歴史的だったといって差し⽀えなかろう。Youtube での MV の再⽣回数は 1.4 億回を超え、今なお伸び続けている。楽曲にここまでのパワーを与えているのは、背後の⼤⼈たちによる世界観構築の緻密さである。

 その中核が秋元康の作詞術であり、グループの展開全体に影響を与えている。『BRODY』(⽩夜書房、2020 年 2 ⽉号、P48̶50)におけるいしわたり淳治の評論が鮮やかである。

『避雷針』で例えるなら、あの曲って“半同調的な欅坂 46”というグループの側⾯をメタ認知した曲なんですよね。欅坂 46の歌詞って、クラスで「⾯倒くさい奴」って思われているようなキャラクターからの⽬線で歌われるものも多いと思うのですが、『避雷針』はそういう「⾯倒くさい奴」と陰⼝を囁かれている⼈に対してまた別の視点からメッセージを歌う曲になっている。こんな構造の曲、普通は思いつかないですよ。それこそ 2 歩も 3 歩も向こう側で物を作っていなければできない。

 

こうして歌詞をパッと⾒るだけでも「〇〇ない」っていうフレーズがたくさん⽬に付きますよね。つまり全部否定しているんですよ。「こうしろ」と指図されるのも否定するし、「分かるよ」と理解されるのも否定している。だからファンとしては、ただそれをそれとして受け⼊れるしかない。

 

本来はこういう歌詞って、今の時代に成⽴させるのは難しいんですよね。⾔いたいことがあるなら SNS でも⾔えますから。わざわざステージで⾔う必要がない。じゃあ誰がそれをやれば成⽴するのかというと、坂道グループのように制服を着ていて清楚な印象の少⼥たちのほうが、佇まいに抑圧されたイメージが漂っているから、⾳楽に乗せてそれを⾔うと真実味が出てくる。

 

 ビジュアル⾯に関して⾔えば、欅坂の⾐装は多くが学校制服や軍服、礼服を思わせ、基本的には全員が同じデザインのものを着⽤してきた。社会学者の鈴⽊謙介やイラストレーターの森伸之が評するところによれば、

鈴⽊「アイドルブームを牽引してきた AKB48 の楽曲は、その成⻑と歩調を合わせてよりグローバルなものになっていきました。そして、同様にグローバルな楽曲が特徴の K-POP アイドルも、⽇本にどんどん進出してきた。そうして、カワイくてダンスが上⼿くて伝統的なアイドルソングを歌うようなアイドル⾃体がすごく増えてきたんです。⼀⽅で欅坂 46の場合は、制服はかなりシックし、振り付けにモダンダンスのような動きを取り⼊れるなど、表現としてもどちらかと⾔えばアート寄りの世界観を感じさせるものがある。グローバルなアイドル市場のアイドルとはちょっと違う、⽇本にローカライズされた⽂脈を感じさせるアイドルだと思います。」(1)−1

 


森「『⽀配されるな』と歌いながら、体制側によって決められた制服をかっちり着ているという⽭盾がありますよね。しかし、だからこそ内側に秘めた意志の強さも感じられます。いつかこの場所ではない“どこか”へ⾏くため、ひそかに準備を進めているといった感じですね」(1)̶2


 歌詞のメッセージ性、ビジュアル、ダンス、そしてそれらの間に仕組まれた⽭盾。雑にまとめれば「デザイン」の観点において、欅坂 46 はアイドルの多様なあり⽅をさらに押し広げたグループであると⾔える。デビュー以来、アイドルシーンの⾰命の担い⼿であるかのように持ち上げる⾔説が絶えたことはなかった。あえて奇妙な表現を使うが、「右か左かで⾔えば、左」なグループに⾒えるのである。

 しかし、アイドルグループというものは(アイドルに限った話でもないだろうが)、⼀つの側⾯からだけ⾒ても、その有り様を定義できないものだ。トップアイドルの活動は、テレビの冠番組や外部の仕事での活躍、主演ドラマや舞台などのスピンオフ的なコンテンツの存在、ライブの内容など、多くのコンテンツのすべてがプロモーションとして連関しあって形成される網の⽬である。しかもその受容においては、所属事務所や運営の性質、ひいては当時の世相などといった背景情報も影響を与える。そうした相関図全体に対する包括的な認識を前提とせず、それぞれのコンテンツに対する個別的な⾔及のみによってグループの存在を定義づけようとしても、説得⼒は⽣まれない。

 欅坂 46 がいかなる存在かを⾔語化しようとする場合、作品を作品として批評する視点の他に、具体的にはどのような視点があり得るだろうか。私は、アイドルシーンを俯瞰する業界論的な視点が特に必要になるグループであると考える。

 正確には、欅坂 46 の作品をわかろうとすると、アイドルシーン全体について⾔及を避けては通れないのである。そもそも「サイレントマジョリティー」において、業界の⼤⼈によってコントロールされる側⾯が強いはずのアイドルたちが「⼤⼈たちに⽀配されるな」と歌う状況はいびつといってよく、そこに対する違和感は、リリース以降ファンダムの内外から常に呈されてきた。⼩泉今⽇⼦「なんてったってアイドル」が、アイドルというジャンルの誕⽣をアイドル⾃⾝が意識するようになった状況に対する記念碑的な曲であるように、作詞におけるメタ的な視点の利⽤は秋元康の⼗⼋番である。「サイレントマジョリティー」の⽭盾もまた、そうしたメタ的な、「デザインされた⾃⼰⽭盾」であると⾔える。

 つまり、作品群の独創性が、バックグラウンドへの意識=業界論的な視点の導⼊によって裏打ちされているのであり、この複雑さが欅坂 46 の唯⼀性である。

 

⓶業界の相関図における、欅坂 46 の保守性

 結論から⾔うと、業界論的な意味における欅坂 46 の存在感は、既存のトップアイドルシーンの「体制」を補強する保守的なものとして発揮される。ここでいう「体制」を定義するなら、秋元康関連グループを始めとする、経済⼒並びに業界における政治⼒が⾼い事務所のグループから売れていくという芸能界の現状に他ならない(以下、鉤括弧付きの「体制」はこの意味として扱う)

 地下アイドルやそれに対する地上、天空などといった呼称が⽰すように、アイドルシーンにおいてはインディーズとメジャーの境界が⽐較的はっきりと分かれているどころか、全く別の⽂化として捉えられることが多い。地下アイドルと呼ばれるようなインディーズアイドルの全てが、いつの⽇かメジャーデビューして「売れる」ことを望んでいるとは限らず、地下アイドルシーンはトップアイドルシーンとは別ジャンルのように並存していると⾔える。しかしその⼀⽅で、トップアイドルシーンにとっての下積みの場、すなわち新規性と多様性の供給源としての機能を地下アイドルシーンが担ってきたことは、AKB48 が実証しているところだ。

 しかし、いかにシステムやコンテンツが優れていたとしても、経済的・政治的に脆弱な運営⺟体が多い故に、運営が頓挫してしまうグループも多いのが現実である。そう考えた時、48 系列のグループと乃⽊坂 46 の地盤=ファンコミュニティを引き継いだだけでなく、緻密で新しい企画とそれを実現する⼤⼈の⼒を⽣まれながらに持った欅坂 46 の存在は残酷であると⾔える。地下的な現場でいかに新しい展開やコンテンツが育成されようとも、そうした⾰新勢⼒がその⾰新性を根拠として、業界を構成する政治的相関図に参⼊し更新することがもはや不可能に近く、既存のトップたちが⼿を替え品を替えていくことによってしか、シーンのフレッシュさが保たれなくなっていく状況の完成を、欅坂 46 は体現しているのである。

 これこそ、欅坂 46 が抱える保守的な存在感の正体である。作品の中にデザインされた⾃⼰⽭盾の⾰新性を、根拠づけると同時に解毒してしまう、業界論的な⾃⼰⽭盾とでも⾔えようか。この業界論的な⾃⼰⽭盾が、アイドルというジャンルの有様に潜在的な構造の変化をもたらしたと私は考える。それについて、「統⼀的スペクタクル」という概念を⽤いて以下で説明したい。


⓷『スペクタクルの社会』のアイドル論への接続̶̶統⼀的スペクタクルとしてのトップアイドルシーンの成⽴

 フランスの思想家であるギイ・ドゥボールは、⾼度情報消費社会を⽀配する⼒学として「スペクタクル」を想定し、1967 年『スペクタクルの社会』、1992 年『スペクタクルの社会についての注解』(以下、『注解』)を著した。

スペクタクルとは

 スペクタクルという概念の説明は⾮常に難しいが、河合政之が噛み砕いたところによれば、スペクタクルの社会とは

マスメディアの発達とともに資本主義の形態が情報消費社会へと移⾏し、⽣活の全てがメディア上の表象としてしか存在しなくなった状況(2)

を指す。

 さらに亘明志の整理によれば、

スペクタクルの社会では、モノとしての商品よりもむしろ情報やサービスのような形のない商品が主⼒となる。モノとしての商品から切り離されたイメージが⼈びとの⽣を⽀配し決定していくことのなるのである

 

スペクタクルは表象であると同時に現実でもあって、いわば⼆重化されているのである(3)

 つまりスペクタクルは現実から切り離された表象のみを指しているのではなく、モノとして・現実として再⽣産され、⽣活における「⽣産→消費」以外の領域すら決定づけてしまう巨⼤な⼒でもあるということを亘は強調している。それは経済的枠組みや、政策といった形で社会全体に共有される。

統⼀的スペクタクルとは

 ドゥボールは『スペクタクルの社会』の段階で、政治的⽀配体制の⽂脈における2 種類の⼤きなスペクタクルを提⽰する。集中的スペクタクルと拡散的スペクタクルである。亘⽈く

ソ連や中国あるいはナチス・ドイツのような中央集権的官僚主義国家は、集中したスペクタクルという形態を取り、⼤衆には選択の余地が残されていない。これに対してアメリカ合衆国や⻄欧諸国のような先進資本主義国家では、拡散したスペクタクルとなる。そこでは互いに⽭盾した主張がスペクタクルの舞台の上でひしめいている。(3)

 『注解』では、この⼆つのスペクタクルが収斂して⾏き着く先に「統⼀的スペクタクル」が新たに想定されている。正確には、東⻄冷戦における拡散的スペクタクルの勝利を経て、それがより徹底された形でイタリア・フランスの 2 国に持ち込まれることによって、統⼀的スペクタクルの社会が誕⽣したとされている。冷戦以前の世界においては、スペクタクルが集中している場合は、社会の周縁部がその⽀配を逃れ、拡散している場合には、異なるタイプの⽀配が並存しながらも特定の⼀つが覇権を握ることもなかった。しかし伊・仏に置いて萌芽した情報消費社会では、この統⼀的スペクタクルによる⽀配がメディアによって⼈々の間で過剰に内⾯化され、被⽀配者であることすら忘却させるほどに徹底されていく。つまり、「現状」以外の社会の有り様がもはや想定できなくなるのである。

 河合の整理によれば、

この統⼀的スペクタクルの最⼤の特徴は、反体制的⾔説⾃体がパッケージされたメディア的情報として(したがってしばしば商品として)制度に同化吸収され、逆にメディア的権⼒性そのもの(例えば監視の概念など)が社会の無意識となるまでに⼀般化することである。例えば往々にして単なるメディア操作などと安易に混同されがちであるが、実は全く逆であり、むしろ操作の概念が⼀般化してしまうことによって、⼀⾒反体制的な⾔説がまったく抵抗としては機能せず、むしろスペクタクルの連続性と⽀配を強化することにしか寄与しない状況をいうのである。(2)

 

処刑⼈・欅坂 46

 以上を踏まえ、欅坂 46 の保守性と、その果たした役割について整理すべく、「統⼀的スペクタクル」成⽴の過程に当てはめて図式化してみる。群雄割拠の地下アイドルシーンが拡散的スペクタクルの社会、限られた強者が幅を聞かせるトップアイドルシーンが集中的スペクタクルであると想定しよう。

 ⼀国内で覇権を握ったグループの場合、コンテンツ(アイドルたち⾃⾝)以上に、収益を上げるシステムによって定義づけられることが多い。AKB48 の握⼿券・総選挙のシステムや、K-POP アイドルシーンを⽀えてきたオーディション番組『PRODUCE101』=「プデュ」に代表されるように、優れたシステムは海外に輸出されることで相互に影響を与えながら、巨⼤な集中的スペクタクルの社会としての、地球規模のトップアイドルシーンを形成していく。地下アイドルシーンはそうした動きの中では周縁であるが故に、(ベン図的に重なっているとはいえ)集中的スペクタクルの⽀配を逃れ、グループ・事務所単位の⼩規模なスペクタクルを拡散的に並存させながら、個別具体的な欲求の受け⽫として国内のシーンを⽀えていた。ここに欅坂 46 が現れ、「体制」を統⼀的スペクタクルに転じさせるのである。先に引⽤した鈴⽊謙介のインタビューの続きが、その過程を端的に⾔語化している。

地下アイドルには、楽曲がロックだったり MV や歌詞の表現が内省的だったりと、オルタナティブなタイプのアイドルも少なくありません。グローバルなアイドル市場が満たしきれないドメスティックなアイドルへのニーズを地下アイドルが受け⽌めていたところに登場したのが、欅坂 46 だったのではないでしょうか。(1)̶1

 伊仏の統⼀的スペクタクルの社会においては拡散的スペクタクルの勝利が前提だったが、アイドルシーンの場合は逆なのだ。集中的スペクタクル=「体制」の落とし⼦である欅坂 46 が地下的な振る舞いをすることによって、「体制」の全能さをむしろ証明し、ジャンルの更新の担い⼿としての地下アイドルシーンを公開処刑しているに等しいのである。かくして「体制」による⾃前の表現以外の反「体制」的なメッセージは想定不可能となり、既存のトップアイドルシーンが統⼀的スペクタクルとして、市場を占拠するのである。その統⼀の起点になるのが、欅坂 46 の業界論的な⾃⼰⽭盾なのだ。その効果は、作品としてデザインされた⾃⼰⽭盾が効いているからこそ、最⼤限に発揮される。

 

終わりに

 欅坂 46 の元センター・平⼿友梨奈は、その特異な存在感からチェ・ゲバラジャンヌダルクといった⼈物像と結びつけて語られることが多い。しかしグループの顔として平⼿が背負わされた⽴場をあえて例えるならば、ジャンヌを⽕刑に処した教会権⼒が掲げていた聖⺟像や、T シャツの柄としてのゲバラなどの⽅が、⾔葉遊びとして適切であるとすら⾔えるだろう。こうした⽭盾を抱えて⽣まれたグループであるからこそ、彼⼥たちが普通のアイドルの顔をして参加する活動のすべてが相対化され、その意味が根底から揺るがされるといっても過⾔ではない。ゆえに欅坂 46 こそが、今最も⾔語化が難しいグループであると同時に、最も評論ジェニックなグループなのである。

 

(1)『別冊カドカワ 総⼒特集欅坂 46』(株式会社 KADOKAWA、2018年)より「欅坂 46 のオリジナリティを考察する」1:P134 2:140

(2)https://artscape.jp/artword/index.php/ 2020/01/12 閲覧

(3)⻑崎ウエスレヤン⼤学地域総合研究所研究紀要より、亘明志『スペクタクルの⽀配とメディア⽂化』(2008 年)P52

 

記:生きる